★トップパティシエの眼光(第9回 ) 「サロン ド テ ジャマン 宿院幹久シェフ」
トップパティシエの眼光(第9回 )
「サロン ド テ ジャマン(2005年オープン) 宿院幹久(1961年生)オーナーシェフ」
キーワードは分解と再構築
◆やんちゃが許される懐の深い時代に育った◆

宿院幹久は高校時代から料理の世界で生きようと決めていた。
公務員など堅い職業に就く者が多い親戚一同の中での、はぐれもの。東京のレストラン志望を学校に伝え、願書も出していた。
しかし、どういう訳かクラブの先生の一存で、大阪、道頓堀のホテル「ホリディ・イン南海」の一期生として送り込まれることになった。
その当時は釈然としない気持ちだったようだが、料理の世界に深く足を踏み入れ、周囲の人に支えられ大きく育つきっかけを与えられたのだから、人生は分からない。
1979年春入社して、希望通り調理部門に配属となった。シェフはとても厳しく怖い人だったが、人情味があった。
宿院は柔道の経験があり、体格に恵まれていた。血気盛んな年頃、職場はミナミのど真ん中、宗右衛門町ということもあり、帰宅するまでに酔客との喧嘩が絶えなかった。警察のご厄介になることも多く、「またお前か」と一括される日々。怖いながらも“親爺”と慕うシェフが、その都度、関係各所に頭を下げてくれたのだった。
ただでさえ怖いのに、失態を演じた後で大きな体を小さくしていると、「悪くても、素直な気持ちを忘れずにいたらこの業界で一生食べていける。ただし、二十歳になったらきっぱり喧嘩を止めること」と諭された。
普通なら無鉄砲な喧嘩野郎は即刻クビになっていてもおかしくない。仕事ぶりや話を聞く態度など、どこかに見どころがあったのだろう。
キッチンで料理の下ごしらえに明け暮れる日々。ふと、宴会や婚礼に出されるケーキに目が行くようになった。人の仕事が良く見える、というレベルだったかも知れない。
ちょうどその頃、知り合いが喫茶店を始め、「ケーキを出すといいね」という話になり、ケーキへの憧れがにわかに現実味を帯びてきた。
そこで“親爺”に相談し、京都のケーキ屋さんを紹介してもらった。住み込みでほとんど小遣いレベルの給料、という厳しい条件。しかも3年間、なにがなんでも辛抱すること、という条件も付けられた。どれだけ厳しくても、自分のやんちゃを許し、存在を認めてくれた親爺の顔を潰すことは絶対に許されない。覚悟の修業の道だった。
その厳しさは聞きしにまさるものだった。たとえば、クリスマスケーキは毎年3000台作るのだが、スポンジに生クリームを塗るのをたった2人でこなさなければならない。しかもターンテーブルはなく手に持って手の上で回転させながら塗り付けるという高等テクニック。
クリームを塗った土台にデコレーションを絞るのがシェフ、パートの小母さんがイチゴを飾っていた。1日中腕を上げっぱなし。2週間ぶっ続け。最終日にはもう肩が動かなくなってしまったほどだという。
「地獄でしたね。でも、このしんどさも後から思えばまだまだ序の口でした」。
◆ホテルのパティシエとしての日々◆
3年余の辛抱を終えた時、1984年10月大阪・堂島に「大阪全日空ホテル・シェラトン」が開業することになり、その立ち上げメンバーに加わった。
調理部門のシェフは全国に名を知られた横田知義(現「ル ヴァンサンク」シェフ)、飛ぶ鳥を落とす勢いの持ち主だった。宿院はベーカリー部門の配属。同僚には現「名古屋マリオットアソシエ」の松島シェフ、現「リッツカールトン大阪」ベーカリーの松尾シェフなど、業界の大立て者に育つ逸材が揃っていた。いわばパティシエの梁山泊だったと言えるだろう。
気鋭の若者たちが競い合うようにして、知識と技術を磨き合い、氷彫刻、飴細工など基礎の技術に打ち込んだ。当時、関西のコンクールは「エーデルワイス」「ツマガリ」グループが席巻しており、なんとかその牙城を崩したいという思いが強かった。
宿院は技術的には先の二人に後れを取っていた。その経験があるからか、彼はいつも「僕なんか才能もセンスもないですから」というのを口癖にしている。しかし、後で触れるように、菓子作りの能力は手先の器用さや造形力だけでないことは言うまでもない。宿院はその他の部分に才が恵まれていたようだ。
1989年、無我夢中の5年が過ぎ、今度は「大津プリンスホテル」の立ち上げに誘われた。
ここでは無二の親友との出会いが待ち受けていた。「サロン ド テ ジャマン」が2階を間借している「レストラン ジャマン」のオーナーシェフ秋田伸二である。
ホテル内にレストランが5軒あるが、そのなかの「ボーセジュール」のシェフとベーカリーのシェフは仲が良く、一緒に食事をする席に、それぞれお供してきていたのが秋田と宿院。それ以来、現在にいたるまで四半世紀に及ぶ濃密な間柄となった。休みの日になると、宿院の新婚家庭にどういう分けかいつも秋田がいるというほどだった。
「大津プリンスホテル」時代、味の追求、洗練されたプレゼンテーションという意味でも鍛えられたが、何より凄まじかったのは量をこなすということ。
館内のレストランが5つ。そのランチとディナーのパンとデセールをすべてベーカリーが引き受けていた。さらにロビーラウンジには1日1050個のケーキとクロワッサンを届けていた。その上、宴会、婚礼が待ち受けている。
時はバブルの直中。ホテルのオープン当時、37階のベーカリーから外を眺めると、ホテルへ詰めかける車の列が渋滞となって500mほど先の西武百貨店の辺りまでつづくのが見えたという。その人気に乗じて、広大な駐車場を5000人収容の宴会場に改築した。その5000人分のパンとケーキがベーカリーの負担となった。
京都のケーキ屋さんのクリスマスケーキに追われた話が序の口とは、こういうことだったのである。数倍の規模で、しかも毎日、さらにとんでもなくプラスアルファの宴会、婚礼がついて回る。
同じクリスマスで比較すると、気鋭のシェフ、フィリップ・オブロンのクリスマスディナーが5日間、昼夜2回、1回400人。そのデセールとパン、さらに別にクリスマスケーキを500台。ホテルメイドの手の込んだ美しいデコレーションで仕上げなければならなかった。
激務の中で、スタッフ一人ひとりの能力の見極め、作業の手順と作業時間の緻密な割り出しを経て、いかに効率的に仕事を組み立てるかの感覚が養われていった。
宿院は水が合っていたのか、オープン当時6番手に位置していたが、みるみる階段をかけ上り、約6年後には、全国のプリンスホテルのなかで最年少シェフに就任することになる。毎年のようにステップアップした勘定だ。勢いに乗るとはこのことだろう。
しかし、本人、シェフ就任には逡巡があった。そこで、「デリチュース」の長岡シェフに相談。長岡も当時同じプリンスホテル系列の「守口プリンスホテル」でシェフをしていた。
「シェフに成りたい人はいっぱいいます。でも、そのほとんどの人が成れないんです。恵まれたチャンスだからぜひやりなさい」 「でも、シェフの仕事は管理ばっかりでケーキを作れないじゃないですか」 「そんな経験もいずれ役に立つときが来ますよ」と説得されて決意したのだった。
スピード出世はまだつづく。それからさらに6年ほど後、40歳を間際にして課長昇進の話が舞い込んできた。本人、またしてもあまり乗り気ではなかった。
一つのホテルで定員2名という難関。地域での昇進試験、東京本社での試験、さらに社長面接とつづく。自分は落ちると決めていたので、ただ面倒なばかり、と思っていたのだが、推薦してくれる上司の顔も立てなければならず、渋々だったが、蓋を開けてみると合格。
「面接の時に、婚礼の売り上げが落ちている原因と対策を訊かれたのを覚えています。競合する婚礼施設が増えたことが原因で、菓子屋としては生のウェディングケーキを提供して付加価値を高めたい、とその場の思いつきで答えたと思いますけどね」。
どうやら、宿院はつねに客を喜ばせるためのサービス向上を第一に考える基本が叩き込まれているらしく、それがどれだけ自分の首を絞めることになっても、その労を厭わない。また、時代が良かったから、その労には十分な見返りが期待できた。だからこそ、宿院の働きぶりが評価されたのだろう。
◆失敗をフォローしてくれた先輩たち◆
スピード出世したからには、二十歳で心を入れ替えていきなり優等生になったと思うだろう。
いやいや、順風満帆に進んだわけではない。数々の失敗を乗り越えてのステップアップだったのだ。
どんな仕事も失敗はできないのだが、とくに婚礼は人生の門出に汚点を残すということから、婚礼での失敗は即クビを意味していた。その失敗をやらかした。寸胴いっぱいの盛り付けるばかりの付け合わせのニンジンを宴会場に運んでいたとき、会場入り口のスロープの次に来る小さな段差にワゴンを引っ掛けて寸胴を引っくり返してしまった。急遽の裏技を段取り良く手伝ってくれた先輩たちのおかげで事無きを得た。
ある時は、シェフから借りていた包丁をうっかり調理台から落とし、床に落ちる前に受け止めようとし、夢中になって素手で掴んでしまった。右手の小指を3針縫う深い傷を負い、神経断絶でしばらく動かせなくなってしまった。当のシェフはじめ、先輩たちは失敗を責めず、体を労ってくれた。「物は物。自分の体の方が大切だろう。手が使い物にならなくなったらどうするんだ」。
厳しい職場だが、厳しいだけではないお互いの存在を認めあう、心の通い合いがあって、宿院は成長を遂げることができたのだろう。それを可能にしたのも、彼自身の開けっぴろげな大らかさ、押し付けない人なつっこさという、人に好かれる性格を築いていたからに違いない。
課長への昇進試験に合格した直後、世界の名門ホテル「ザ・リッツ・カールトン大阪」の立ち上げメンバー、メインダイニング「ラ・ベ」の日本人シェフとして転職していた秋田が、「ラ・ベ」でシェフパティシエを募集していると声を掛けてきた。
あまりにタイミングが悪く、さすがに大親友の秋田の誘いとはいえ、即答はできなかった。一度食事に、と誘われ、「ラ・ベ」を訪れた。行ってみて度肝を抜かれた。空間のゴージャスさ、磨き抜かれた食器やカトラリー。斬新な料理。
むくむくと“この世界でやってみたい”という気持ちが湧いてきた。その昂りのおかげで、「大津プリンスホテル」の課長・シェフを投げ打つ際の悶着にも耐えられそうだった。難関は奥さんと思われたが、すんなり「やりたいんでしょ」と、課長職の高給より収入が下がることも問題にされなかった。
退職に当たっては「前代未聞だよ!」とさんざん嫌みを言われたが、待ち受けている世界への期待を胸になんなく跳ね返すことができた。
◆いよいよ、世界のトップレベルの創作の世界へ◆
待望の「ラ・ベ」での生活が始まった。予想を上回る厳しさだった。
シェフパティシエとはいえ、すべての権限は料理のシェフにあり、人事権も彼が握っていた。少数精鋭主義で、“できないものは去れ”という厳しい世界。「あれ?なんであいつ今日いてへんねん」「クビや」という、昨日までいた仲間についてのやりとりが日常茶飯事だった。
初代シェフのブルーノ・メナールは名匠ジャック・ボリーの後を受けて「ロオジェ」のシェフになった逸材。
2代目シェフ、デヴィッド・セニアも、フランスの最前線で実績を挙げてきた人物。
彼等の作り出す料理の斬新さは群を抜いており、作り出す世界の緊張感は特別なもので、レベルに到達していない人間は足手まといになるばかり。人材とは見てもらえないのだ。
宿院もその流儀についていくためには、今まで培ってきた経験からくる常識や、考えの枠組みを捨て去ることを迫られていた。
たとえば、一番影響を受けたデヴィッドは「ティラミスのカカオをチュイルにできないかな」と訊いてくる。宿院はその突飛なアイデアの先を考えなければならない。「では、クリームはそのままにしてコーヒーリキュールはジュレにしよう」。ティラミスの味の構成要素を分解して、新たな食感を与えておいて、別々に食べてもそれなりのおいしさを築きつつ、一緒に食べればティラミスが再構成されるという仕掛け。
デヴィッドの料理はつねにクラシックに基づいていながら、それをいい意味で換骨奪胎するアイデアで築かれている。その意表を突く分解と再構築の思考方法を身に付けるには、お菓子の決まりきった考え方に捉われていては間に合わない。明日はキッチンにいない存在に堕ちてしまう。毎日が頭の体操だったと言えるだろう。
おかげで、お菓子にたいするあらゆるこだわりが取り払われた。
重視するのは、美味しいかどうか、その1点。そして、その後にオペレーションとして可能なのかどうかという検証が必要だ。デセールは毎日5種類用意される。調理の進行状況によっては5種類が同時進行することもありうる。その際に、他の作業を止めてしまうような内容のものは現実のラインには乗せられない。
また料理食材のデザートへの転用も多く、そのアイデアと技術は宿院の大きな財産になっている。この場面では、料理の世界に長く籍を置き、友人には料理人の方が多いという経歴が物を言った。食材に精通していることで、デヴィッドのアイデアを膨らませることが容易になった。
日本の食材の中から山椒を見出したシェフがデセールに使いたいという。「じゃ、シロップで炊いて、オリーブオイルかバジルオイルを合わせたらどうか」とすぐに打ち返せた。セロリにはグレープフルーツで応じた。しまいに、わさびやニンニクにまで挑戦させられた。
フランスの最先端の技術や考え方が、日本では「ラ・ベ」で最初に実践されていたのではないかという。それだけ前衛的で実験的な料理だった。
プリンス時代、いつも東京の連中のプレゼンテーションの上手さに引け目を感じてきたそうだが、一挙に東京を通り越して、パリの最先端の感覚を自分のものにすることができたのである。しかも、昔から「味では関西のほうが上だった」という味覚をしっかり注入したのだから、「ラ・ベ」のデセールは世界のトップクラスをつっ走っていたということだ。
その証拠に宿院は「チュリエス・マガジン」から取材された、最初の日本人の栄誉を担っている。
イヴ・チュリエス。「ペルティエ」「ジャン・ミエ」と並ぶ巨匠で、フランスの菓子の現代化に大きな寄与を果たしたMOF。彼は啓蒙にも熱心で、雑誌を発行して、最先端の料理と菓子、その担い手を紹介してきた。
その日本特集で、フィリップ・オブロンとデヴィッド・セニアが紹介される事になった。デヴィッドが「自分の世界はデセールも含めて完結するからぜひ宿院も紹介してほしい」と申し入れ、それが快諾されたのだった。
3日3晩、根を詰めての取材であり、対応となった。日本では雑誌レベルではなかなかそれだけの本格的な取材は組まれない。やはり、フランスはそれだけ食にまつわる土壌が豊かだということだろう。
宿院はそのフランスに認められた、最初の日本人シェフと言えるのだ。
◆「サロン ド テ ジャマン」の開業とそのケーキ&デセール◆
2005年4月、先に独立を果たしていた秋田の店「フレンチレストラン ジャマン」の2階に、「サロン ド テジャマン」をオープンした。44歳、十分すぎるほどの経験を経ての独立だった。
長年レストラン畑で過ごしてきたこともあり、デセールの感覚、一人ひとりの客に一皿ずつ提供する心のこもったサービスが原点となっている。だから、自分の店でも当然デセールは用意するし、持ち帰り用のプチガトーも、注文が入ってから組み立てる。
手間のかかる方法をあえて採るのはホテル時代から変わらない宿院一流のサービス精神。ホテルのシェフ時代、部下からブーイングを喰らうこともあったが、「しんどいかもしらんけど、どっちがお客さんが喜ぶ?」と、商品、サービスの内容向上を訴え、説得してきたのだった。
自分の店となって、スタッフがそろわない時にはデセールが中止になるときもあるが、基本姿勢は貫き通している。
宿院がサービスにかける意気込みは、客の動静を窺う神経の張りつめ方からも分かる。取材時にアヴァンデセール、デセールをつづけていただいたのだが、デセールの『フォンダンショコラ』を窯に入れるタイミングが難しい。
この日はデセールをスタッフに任せ、彼は注文のチョコレートケーキに名探偵コナンのイラストを描くことに集中していた。
そのはずなのに、後から聞いた話では、小生がアヴァンデセールの『バジルのソルベ』を4匙ほど食べたところで、スタッフに 「今やろ、サロンを見る余裕のある仕事をしてて、なんでタイミングが分からへんねん」 「えっ、なんで分かるんですか?」 「俺はスプーンの音を聞いてて、あ、もう4匙目やから、そろそろやな、と分かった」 という会話がなされていたらしい。
手許の仕事に集中しつつ、周囲に気を配る。これはプロの仕事人は誰もが、通過しなければならないことだ。とはいえ、彼の瞬間を逃さない集中力は尋常ではない。
そのような張りつめた精神でお菓子を作りながら、客にはゆったりとリラックスした時間を過ごさせようとしている。テーブルは1階のレストランよりも大きいくらい。店を使い慣れるにしたがって、そのゆとりを満喫する客も増えているそうだ。
◆宿院流の分解と再構築による菓子作り◆
さて、そろそろ宿院のお菓子そのものについて語ろう。
まず、今回食べたデセール2種から。
●『パンナコッタとバジルのソルベ』。

パンナコッタの上に、レモンライムの爽やかな酸味を活かしたバジルのソルベ。
周囲にはカカオ風味のクランブル。
ソルベにオレンジジュースで仕込んだチュイルが刺さっている。
バジルが少しも青臭くなく楽しめる。レモンライムの酸味とともに爽快な香りに感じられる。春先から盛夏まで気持ち良く食べられるだろう。
パンナコッタがすべてのパーツの優しい受け皿となって、まーるく包み込んでくれる。
チュイルのカラメル風味やオレンジ風味も、そしてクランブルのカカオ風味も角の取れたまろやかさの中に溶け込み、一体となっていく、その時間経過が楽しいデザートだ。
●『フォンダンショコラ』。

ヴァローナのマンジャリを使用。
添えられているアイスクリームはアマレット風味。
もう一つ添えられているのはカシスのソルベ。
飾られているのはフィヤンティーヌ、カカオ風味のクランブル、生姜のコンフィ、オレンジピールを赤く染めたコンフィ。ソースは蜂蜜。
時にはチョコレートとアイスクリームの脇にブラックペッパーを置くこともあるそうだ。
デセールならではのショーフロアの皿。当たり前のことだが、温冷の対比がやはり美味しい。
マンジャリのミネラルの強い味にアマレットのアーモンド風味がぴったり寄り添う。この組み合わせは暖かくまろやか。
逆にカシスとの組み合わせは伶俐な印象。酸味が強く加わることで味覚はより立体的になる。
必ず食感のあるものを添えるのはカリカリとした刺激が脳を覚醒させる効果があるとフランスでほとんど法則化されていることに従ったもの。宿院自身もその考えに同意しているからだ。
定番のデザートだけに驚きという部分ではアマレットのアイスクリームの意外性くらいだが、よく練られた安定感のある味わいと、付け合わせの妙で飽きさせないところにベテランの味を感じずにはいられない。
次はデヴィッドの影響で固定観念を打破したものとして、ミルフィーユを3種紹介しよう。
最初に出会って驚いたのが
●『バナナのミルフィーユ』。

普通、だれもが思うのはイチゴのミルフィーユのようにカスタードの間に薄くスライスしたバナナが入っているというものだろう。
ところが、よく熟したなめらかな肉質のバナナを選ぶことで、バナナそのものをクリームの代わりにしてしまったのである!
なんとも大胆素敵。
ライムジュースであえて、甘みをクッキリさせ、さらにカカオのクランブルを添えることで味わいを深くするとともに、パイの味の濃度に対抗するだけの甘みを補っている。
サロンで食べたのでライム風味のパッションフルーツのアイスクリームが添えられていた。
南国の香りがずらりと並び、懶惰な微睡みを誘いながら、パッションの強烈な酸味で覚醒させもする。心弾む仕掛けだ。
次は
●『ピスタチオのムース、パッションゼリーのミルフィーユ仕立て』。

繊細なパイ生地の間にピスタチオのムースとパッションフルーツのジュレ、そして薄切りのイチゴのスライスが挟まれている。
ストレートにパッションの酸味が刺激し、つづいてピスタチオの風味が広がり、最後にパイ生地の力強い風味が押し寄せる。
イチゴは全体に水分の補給の役割を果たし、味わいは添えられているソルベで伝えている。
すべての味わいが時間差によって混じりあうことなく、ピュアな味わいを伝えてくる。
総合されるのは頭の中だけ、という不思議な一体化現象が見られる。
そして、現在定番商品としてつねに置かれている
●『ミルフィーユ』。

5段のパイ生地のように見えるが、真ん中はヘーゼルのプラリネの板。力強い味わいのパイ生地が普通より1枚多い4枚。
その強さを迎え撃つのがフィヤンティーヌ入りのプラリネ。
そして、カスタードには小さなアーモンドのダイスが加えられている。
一転して、似通った味わい、風味と食感を厚く塗りあわせた油絵のようなミルフィーユ。
パイ生地はバターを焦しているようなもので元々ヘーゼルの風味に近い。そこへヘーゼルのプラリネにアーモンド。パイの優しいサクサク感に、フィヤンティーヌのかなり強いチャリチャリ感。
これでもかと畳み掛けてくる迫力のあるミルフィーユ。
3つのミルフィーユがそれぞれ発想の方法、視点が異なっており、同じミルフィーユという台本から3人の演出家が異なったパフォーマンスを抽き出しているようですらある。まさに、宿院の自由な精神の発露と言えるだろう。
生地作りの上手さを語る上で重要なのは
●『フィグ』。

ドライイチジクの入ったパウンドケーキ、のはずなのだが、食べてその軽さに驚く。
やわやわのスッと消えてしまうような口溶けの良さ。
生地にナツメグが使われているのでパンデピスのような風味。
洗練の極のような軽やかな生地に少し田舎臭い香りを付けて力強さを付与。
ルビーポートに漬けられたイチジクの美味しさといったら、もう。さらにフランボワーズも加わって酸味の奥行きを出してくれている。

前述のティラミスの逸話を彷佛させるのが
●『カプチーノ』
エスプレッソのバヴァロワとゼリーの組み合わせ。
バヴァロワの中にブリュレ生地が射込んである。
トップにクレームシャンティとシナモン。
ここでも素材が分解され、再構築されている。
その際、エスプレッソはバヴァロワとゼリーに増殖。最初から生クリームの加わったバヴァロワとシャンティで補うゼリー。
一体となった味わいと、別々の味をそれぞれ味わえる面白さがある。
最後に紹介するのはシェフが得意にしているチョコレートケーキから
●『ベネズエラ』。

宿院のお気に入りだったエルレイ社のサンホアキンを使ったもの。エルレイ社が廃業したために今では幻となったケーキ。
カカオ70%のサンホアキンをたっぷり使った、ガナッシュとシャンティを合わせたムースが主体。
コーヒーシロップをアンビベしたチョコレートスポンジとカラメリゼしたクルミが射込まれている。底にもチョコスポンジ。表面は見事なほどの鏡面仕上げのグラッサージュ。
まずサンホアキンの品の良さ。これを選んだこと自体で半分以上の成功を収めていると言えるほど。組み合わせが品の良さに引きずられることなく、むしろ力強さの部分に呼応しているところに、成功の鍵があるようだ。
コーヒーは限りなくチョコレートにピタリと寄り添い、クルミは例の食感の刺激。プラス、香りと味の奥行きを出している。
シンプルでもうこれ以上何も引けないというほど、バランス良く、引き締まった味わい。
味わったその日のことが偲ばれる。素晴らしかったね。
“分解と再構築”と言葉にしてしまうと、誰にでもできる簡単なことのように思えるかもしれない。
しかし、再構築の再は“差異”を生み出すものであり、“才”によってしか生み出せないものなのだ。
シェフはつねに謙遜して自分なんか、と卑下してみせるが、仮にスタート時点は本人の言葉通りだったかもしれないが、今、関西でもっとも燦めきを発揮しているパティシエであることは間違いない。今、彼の卑下は後輩を励ます意味で言っているのである。
宿院ワールドには抽き出しが多く、紹介していると結局全品ということになりそうなので、この辺で終わることにしよう。「チュリエス・マカジン」ほどの取材をしてみたくなる逸材だ。また、次の機会が訪れることを望みたい。
※敬称略/このシリーズはインタビューを基にオリジナルに構成したものです(取材・執筆・撮影 久保田僕)文責:日本パイ協会
※リンク先のブログ「パイ日和」「パイ日和・おまけ」の記事内容は、その当時の価格・レシピですので、現在は変わっているかもしれません。何卒、ご了承ください。
※ブログ「パイ日和・おまけ」では、このお店のケーキを紹介しています。
「サロン ド テ ジャマン(2005年オープン) 宿院幹久(1961年生)オーナーシェフ」
キーワードは分解と再構築
◆やんちゃが許される懐の深い時代に育った◆

宿院幹久は高校時代から料理の世界で生きようと決めていた。
公務員など堅い職業に就く者が多い親戚一同の中での、はぐれもの。東京のレストラン志望を学校に伝え、願書も出していた。
しかし、どういう訳かクラブの先生の一存で、大阪、道頓堀のホテル「ホリディ・イン南海」の一期生として送り込まれることになった。
その当時は釈然としない気持ちだったようだが、料理の世界に深く足を踏み入れ、周囲の人に支えられ大きく育つきっかけを与えられたのだから、人生は分からない。
1979年春入社して、希望通り調理部門に配属となった。シェフはとても厳しく怖い人だったが、人情味があった。
宿院は柔道の経験があり、体格に恵まれていた。血気盛んな年頃、職場はミナミのど真ん中、宗右衛門町ということもあり、帰宅するまでに酔客との喧嘩が絶えなかった。警察のご厄介になることも多く、「またお前か」と一括される日々。怖いながらも“親爺”と慕うシェフが、その都度、関係各所に頭を下げてくれたのだった。
ただでさえ怖いのに、失態を演じた後で大きな体を小さくしていると、「悪くても、素直な気持ちを忘れずにいたらこの業界で一生食べていける。ただし、二十歳になったらきっぱり喧嘩を止めること」と諭された。
普通なら無鉄砲な喧嘩野郎は即刻クビになっていてもおかしくない。仕事ぶりや話を聞く態度など、どこかに見どころがあったのだろう。
キッチンで料理の下ごしらえに明け暮れる日々。ふと、宴会や婚礼に出されるケーキに目が行くようになった。人の仕事が良く見える、というレベルだったかも知れない。
ちょうどその頃、知り合いが喫茶店を始め、「ケーキを出すといいね」という話になり、ケーキへの憧れがにわかに現実味を帯びてきた。
そこで“親爺”に相談し、京都のケーキ屋さんを紹介してもらった。住み込みでほとんど小遣いレベルの給料、という厳しい条件。しかも3年間、なにがなんでも辛抱すること、という条件も付けられた。どれだけ厳しくても、自分のやんちゃを許し、存在を認めてくれた親爺の顔を潰すことは絶対に許されない。覚悟の修業の道だった。
その厳しさは聞きしにまさるものだった。たとえば、クリスマスケーキは毎年3000台作るのだが、スポンジに生クリームを塗るのをたった2人でこなさなければならない。しかもターンテーブルはなく手に持って手の上で回転させながら塗り付けるという高等テクニック。
クリームを塗った土台にデコレーションを絞るのがシェフ、パートの小母さんがイチゴを飾っていた。1日中腕を上げっぱなし。2週間ぶっ続け。最終日にはもう肩が動かなくなってしまったほどだという。
「地獄でしたね。でも、このしんどさも後から思えばまだまだ序の口でした」。
◆ホテルのパティシエとしての日々◆
3年余の辛抱を終えた時、1984年10月大阪・堂島に「大阪全日空ホテル・シェラトン」が開業することになり、その立ち上げメンバーに加わった。
調理部門のシェフは全国に名を知られた横田知義(現「ル ヴァンサンク」シェフ)、飛ぶ鳥を落とす勢いの持ち主だった。宿院はベーカリー部門の配属。同僚には現「名古屋マリオットアソシエ」の松島シェフ、現「リッツカールトン大阪」ベーカリーの松尾シェフなど、業界の大立て者に育つ逸材が揃っていた。いわばパティシエの梁山泊だったと言えるだろう。
気鋭の若者たちが競い合うようにして、知識と技術を磨き合い、氷彫刻、飴細工など基礎の技術に打ち込んだ。当時、関西のコンクールは「エーデルワイス」「ツマガリ」グループが席巻しており、なんとかその牙城を崩したいという思いが強かった。
宿院は技術的には先の二人に後れを取っていた。その経験があるからか、彼はいつも「僕なんか才能もセンスもないですから」というのを口癖にしている。しかし、後で触れるように、菓子作りの能力は手先の器用さや造形力だけでないことは言うまでもない。宿院はその他の部分に才が恵まれていたようだ。
1989年、無我夢中の5年が過ぎ、今度は「大津プリンスホテル」の立ち上げに誘われた。
ここでは無二の親友との出会いが待ち受けていた。「サロン ド テ ジャマン」が2階を間借している「レストラン ジャマン」のオーナーシェフ秋田伸二である。
ホテル内にレストランが5軒あるが、そのなかの「ボーセジュール」のシェフとベーカリーのシェフは仲が良く、一緒に食事をする席に、それぞれお供してきていたのが秋田と宿院。それ以来、現在にいたるまで四半世紀に及ぶ濃密な間柄となった。休みの日になると、宿院の新婚家庭にどういう分けかいつも秋田がいるというほどだった。
「大津プリンスホテル」時代、味の追求、洗練されたプレゼンテーションという意味でも鍛えられたが、何より凄まじかったのは量をこなすということ。
館内のレストランが5つ。そのランチとディナーのパンとデセールをすべてベーカリーが引き受けていた。さらにロビーラウンジには1日1050個のケーキとクロワッサンを届けていた。その上、宴会、婚礼が待ち受けている。
時はバブルの直中。ホテルのオープン当時、37階のベーカリーから外を眺めると、ホテルへ詰めかける車の列が渋滞となって500mほど先の西武百貨店の辺りまでつづくのが見えたという。その人気に乗じて、広大な駐車場を5000人収容の宴会場に改築した。その5000人分のパンとケーキがベーカリーの負担となった。
京都のケーキ屋さんのクリスマスケーキに追われた話が序の口とは、こういうことだったのである。数倍の規模で、しかも毎日、さらにとんでもなくプラスアルファの宴会、婚礼がついて回る。
同じクリスマスで比較すると、気鋭のシェフ、フィリップ・オブロンのクリスマスディナーが5日間、昼夜2回、1回400人。そのデセールとパン、さらに別にクリスマスケーキを500台。ホテルメイドの手の込んだ美しいデコレーションで仕上げなければならなかった。
激務の中で、スタッフ一人ひとりの能力の見極め、作業の手順と作業時間の緻密な割り出しを経て、いかに効率的に仕事を組み立てるかの感覚が養われていった。
宿院は水が合っていたのか、オープン当時6番手に位置していたが、みるみる階段をかけ上り、約6年後には、全国のプリンスホテルのなかで最年少シェフに就任することになる。毎年のようにステップアップした勘定だ。勢いに乗るとはこのことだろう。
しかし、本人、シェフ就任には逡巡があった。そこで、「デリチュース」の長岡シェフに相談。長岡も当時同じプリンスホテル系列の「守口プリンスホテル」でシェフをしていた。
「シェフに成りたい人はいっぱいいます。でも、そのほとんどの人が成れないんです。恵まれたチャンスだからぜひやりなさい」 「でも、シェフの仕事は管理ばっかりでケーキを作れないじゃないですか」 「そんな経験もいずれ役に立つときが来ますよ」と説得されて決意したのだった。
スピード出世はまだつづく。それからさらに6年ほど後、40歳を間際にして課長昇進の話が舞い込んできた。本人、またしてもあまり乗り気ではなかった。
一つのホテルで定員2名という難関。地域での昇進試験、東京本社での試験、さらに社長面接とつづく。自分は落ちると決めていたので、ただ面倒なばかり、と思っていたのだが、推薦してくれる上司の顔も立てなければならず、渋々だったが、蓋を開けてみると合格。
「面接の時に、婚礼の売り上げが落ちている原因と対策を訊かれたのを覚えています。競合する婚礼施設が増えたことが原因で、菓子屋としては生のウェディングケーキを提供して付加価値を高めたい、とその場の思いつきで答えたと思いますけどね」。
どうやら、宿院はつねに客を喜ばせるためのサービス向上を第一に考える基本が叩き込まれているらしく、それがどれだけ自分の首を絞めることになっても、その労を厭わない。また、時代が良かったから、その労には十分な見返りが期待できた。だからこそ、宿院の働きぶりが評価されたのだろう。
◆失敗をフォローしてくれた先輩たち◆
スピード出世したからには、二十歳で心を入れ替えていきなり優等生になったと思うだろう。
いやいや、順風満帆に進んだわけではない。数々の失敗を乗り越えてのステップアップだったのだ。
どんな仕事も失敗はできないのだが、とくに婚礼は人生の門出に汚点を残すということから、婚礼での失敗は即クビを意味していた。その失敗をやらかした。寸胴いっぱいの盛り付けるばかりの付け合わせのニンジンを宴会場に運んでいたとき、会場入り口のスロープの次に来る小さな段差にワゴンを引っ掛けて寸胴を引っくり返してしまった。急遽の裏技を段取り良く手伝ってくれた先輩たちのおかげで事無きを得た。
ある時は、シェフから借りていた包丁をうっかり調理台から落とし、床に落ちる前に受け止めようとし、夢中になって素手で掴んでしまった。右手の小指を3針縫う深い傷を負い、神経断絶でしばらく動かせなくなってしまった。当のシェフはじめ、先輩たちは失敗を責めず、体を労ってくれた。「物は物。自分の体の方が大切だろう。手が使い物にならなくなったらどうするんだ」。
厳しい職場だが、厳しいだけではないお互いの存在を認めあう、心の通い合いがあって、宿院は成長を遂げることができたのだろう。それを可能にしたのも、彼自身の開けっぴろげな大らかさ、押し付けない人なつっこさという、人に好かれる性格を築いていたからに違いない。
課長への昇進試験に合格した直後、世界の名門ホテル「ザ・リッツ・カールトン大阪」の立ち上げメンバー、メインダイニング「ラ・ベ」の日本人シェフとして転職していた秋田が、「ラ・ベ」でシェフパティシエを募集していると声を掛けてきた。
あまりにタイミングが悪く、さすがに大親友の秋田の誘いとはいえ、即答はできなかった。一度食事に、と誘われ、「ラ・ベ」を訪れた。行ってみて度肝を抜かれた。空間のゴージャスさ、磨き抜かれた食器やカトラリー。斬新な料理。
むくむくと“この世界でやってみたい”という気持ちが湧いてきた。その昂りのおかげで、「大津プリンスホテル」の課長・シェフを投げ打つ際の悶着にも耐えられそうだった。難関は奥さんと思われたが、すんなり「やりたいんでしょ」と、課長職の高給より収入が下がることも問題にされなかった。
退職に当たっては「前代未聞だよ!」とさんざん嫌みを言われたが、待ち受けている世界への期待を胸になんなく跳ね返すことができた。
◆いよいよ、世界のトップレベルの創作の世界へ◆
待望の「ラ・ベ」での生活が始まった。予想を上回る厳しさだった。
シェフパティシエとはいえ、すべての権限は料理のシェフにあり、人事権も彼が握っていた。少数精鋭主義で、“できないものは去れ”という厳しい世界。「あれ?なんであいつ今日いてへんねん」「クビや」という、昨日までいた仲間についてのやりとりが日常茶飯事だった。
初代シェフのブルーノ・メナールは名匠ジャック・ボリーの後を受けて「ロオジェ」のシェフになった逸材。
2代目シェフ、デヴィッド・セニアも、フランスの最前線で実績を挙げてきた人物。
彼等の作り出す料理の斬新さは群を抜いており、作り出す世界の緊張感は特別なもので、レベルに到達していない人間は足手まといになるばかり。人材とは見てもらえないのだ。
宿院もその流儀についていくためには、今まで培ってきた経験からくる常識や、考えの枠組みを捨て去ることを迫られていた。
たとえば、一番影響を受けたデヴィッドは「ティラミスのカカオをチュイルにできないかな」と訊いてくる。宿院はその突飛なアイデアの先を考えなければならない。「では、クリームはそのままにしてコーヒーリキュールはジュレにしよう」。ティラミスの味の構成要素を分解して、新たな食感を与えておいて、別々に食べてもそれなりのおいしさを築きつつ、一緒に食べればティラミスが再構成されるという仕掛け。
デヴィッドの料理はつねにクラシックに基づいていながら、それをいい意味で換骨奪胎するアイデアで築かれている。その意表を突く分解と再構築の思考方法を身に付けるには、お菓子の決まりきった考え方に捉われていては間に合わない。明日はキッチンにいない存在に堕ちてしまう。毎日が頭の体操だったと言えるだろう。
おかげで、お菓子にたいするあらゆるこだわりが取り払われた。
重視するのは、美味しいかどうか、その1点。そして、その後にオペレーションとして可能なのかどうかという検証が必要だ。デセールは毎日5種類用意される。調理の進行状況によっては5種類が同時進行することもありうる。その際に、他の作業を止めてしまうような内容のものは現実のラインには乗せられない。
また料理食材のデザートへの転用も多く、そのアイデアと技術は宿院の大きな財産になっている。この場面では、料理の世界に長く籍を置き、友人には料理人の方が多いという経歴が物を言った。食材に精通していることで、デヴィッドのアイデアを膨らませることが容易になった。
日本の食材の中から山椒を見出したシェフがデセールに使いたいという。「じゃ、シロップで炊いて、オリーブオイルかバジルオイルを合わせたらどうか」とすぐに打ち返せた。セロリにはグレープフルーツで応じた。しまいに、わさびやニンニクにまで挑戦させられた。
フランスの最先端の技術や考え方が、日本では「ラ・ベ」で最初に実践されていたのではないかという。それだけ前衛的で実験的な料理だった。
プリンス時代、いつも東京の連中のプレゼンテーションの上手さに引け目を感じてきたそうだが、一挙に東京を通り越して、パリの最先端の感覚を自分のものにすることができたのである。しかも、昔から「味では関西のほうが上だった」という味覚をしっかり注入したのだから、「ラ・ベ」のデセールは世界のトップクラスをつっ走っていたということだ。
その証拠に宿院は「チュリエス・マガジン」から取材された、最初の日本人の栄誉を担っている。
イヴ・チュリエス。「ペルティエ」「ジャン・ミエ」と並ぶ巨匠で、フランスの菓子の現代化に大きな寄与を果たしたMOF。彼は啓蒙にも熱心で、雑誌を発行して、最先端の料理と菓子、その担い手を紹介してきた。
その日本特集で、フィリップ・オブロンとデヴィッド・セニアが紹介される事になった。デヴィッドが「自分の世界はデセールも含めて完結するからぜひ宿院も紹介してほしい」と申し入れ、それが快諾されたのだった。
3日3晩、根を詰めての取材であり、対応となった。日本では雑誌レベルではなかなかそれだけの本格的な取材は組まれない。やはり、フランスはそれだけ食にまつわる土壌が豊かだということだろう。
宿院はそのフランスに認められた、最初の日本人シェフと言えるのだ。
◆「サロン ド テ ジャマン」の開業とそのケーキ&デセール◆
2005年4月、先に独立を果たしていた秋田の店「フレンチレストラン ジャマン」の2階に、「サロン ド テジャマン」をオープンした。44歳、十分すぎるほどの経験を経ての独立だった。
長年レストラン畑で過ごしてきたこともあり、デセールの感覚、一人ひとりの客に一皿ずつ提供する心のこもったサービスが原点となっている。だから、自分の店でも当然デセールは用意するし、持ち帰り用のプチガトーも、注文が入ってから組み立てる。
手間のかかる方法をあえて採るのはホテル時代から変わらない宿院一流のサービス精神。ホテルのシェフ時代、部下からブーイングを喰らうこともあったが、「しんどいかもしらんけど、どっちがお客さんが喜ぶ?」と、商品、サービスの内容向上を訴え、説得してきたのだった。
自分の店となって、スタッフがそろわない時にはデセールが中止になるときもあるが、基本姿勢は貫き通している。
宿院がサービスにかける意気込みは、客の動静を窺う神経の張りつめ方からも分かる。取材時にアヴァンデセール、デセールをつづけていただいたのだが、デセールの『フォンダンショコラ』を窯に入れるタイミングが難しい。
この日はデセールをスタッフに任せ、彼は注文のチョコレートケーキに名探偵コナンのイラストを描くことに集中していた。
そのはずなのに、後から聞いた話では、小生がアヴァンデセールの『バジルのソルベ』を4匙ほど食べたところで、スタッフに 「今やろ、サロンを見る余裕のある仕事をしてて、なんでタイミングが分からへんねん」 「えっ、なんで分かるんですか?」 「俺はスプーンの音を聞いてて、あ、もう4匙目やから、そろそろやな、と分かった」 という会話がなされていたらしい。
手許の仕事に集中しつつ、周囲に気を配る。これはプロの仕事人は誰もが、通過しなければならないことだ。とはいえ、彼の瞬間を逃さない集中力は尋常ではない。
そのような張りつめた精神でお菓子を作りながら、客にはゆったりとリラックスした時間を過ごさせようとしている。テーブルは1階のレストランよりも大きいくらい。店を使い慣れるにしたがって、そのゆとりを満喫する客も増えているそうだ。
◆宿院流の分解と再構築による菓子作り◆
さて、そろそろ宿院のお菓子そのものについて語ろう。
まず、今回食べたデセール2種から。
●『パンナコッタとバジルのソルベ』。

パンナコッタの上に、レモンライムの爽やかな酸味を活かしたバジルのソルベ。
周囲にはカカオ風味のクランブル。
ソルベにオレンジジュースで仕込んだチュイルが刺さっている。
バジルが少しも青臭くなく楽しめる。レモンライムの酸味とともに爽快な香りに感じられる。春先から盛夏まで気持ち良く食べられるだろう。
パンナコッタがすべてのパーツの優しい受け皿となって、まーるく包み込んでくれる。
チュイルのカラメル風味やオレンジ風味も、そしてクランブルのカカオ風味も角の取れたまろやかさの中に溶け込み、一体となっていく、その時間経過が楽しいデザートだ。
●『フォンダンショコラ』。

ヴァローナのマンジャリを使用。
添えられているアイスクリームはアマレット風味。
もう一つ添えられているのはカシスのソルベ。
飾られているのはフィヤンティーヌ、カカオ風味のクランブル、生姜のコンフィ、オレンジピールを赤く染めたコンフィ。ソースは蜂蜜。
時にはチョコレートとアイスクリームの脇にブラックペッパーを置くこともあるそうだ。
デセールならではのショーフロアの皿。当たり前のことだが、温冷の対比がやはり美味しい。
マンジャリのミネラルの強い味にアマレットのアーモンド風味がぴったり寄り添う。この組み合わせは暖かくまろやか。
逆にカシスとの組み合わせは伶俐な印象。酸味が強く加わることで味覚はより立体的になる。
必ず食感のあるものを添えるのはカリカリとした刺激が脳を覚醒させる効果があるとフランスでほとんど法則化されていることに従ったもの。宿院自身もその考えに同意しているからだ。
定番のデザートだけに驚きという部分ではアマレットのアイスクリームの意外性くらいだが、よく練られた安定感のある味わいと、付け合わせの妙で飽きさせないところにベテランの味を感じずにはいられない。
次はデヴィッドの影響で固定観念を打破したものとして、ミルフィーユを3種紹介しよう。
最初に出会って驚いたのが
●『バナナのミルフィーユ』。

普通、だれもが思うのはイチゴのミルフィーユのようにカスタードの間に薄くスライスしたバナナが入っているというものだろう。
ところが、よく熟したなめらかな肉質のバナナを選ぶことで、バナナそのものをクリームの代わりにしてしまったのである!
なんとも大胆素敵。
ライムジュースであえて、甘みをクッキリさせ、さらにカカオのクランブルを添えることで味わいを深くするとともに、パイの味の濃度に対抗するだけの甘みを補っている。
サロンで食べたのでライム風味のパッションフルーツのアイスクリームが添えられていた。
南国の香りがずらりと並び、懶惰な微睡みを誘いながら、パッションの強烈な酸味で覚醒させもする。心弾む仕掛けだ。
次は
●『ピスタチオのムース、パッションゼリーのミルフィーユ仕立て』。

繊細なパイ生地の間にピスタチオのムースとパッションフルーツのジュレ、そして薄切りのイチゴのスライスが挟まれている。
ストレートにパッションの酸味が刺激し、つづいてピスタチオの風味が広がり、最後にパイ生地の力強い風味が押し寄せる。
イチゴは全体に水分の補給の役割を果たし、味わいは添えられているソルベで伝えている。
すべての味わいが時間差によって混じりあうことなく、ピュアな味わいを伝えてくる。
総合されるのは頭の中だけ、という不思議な一体化現象が見られる。
そして、現在定番商品としてつねに置かれている
●『ミルフィーユ』。

5段のパイ生地のように見えるが、真ん中はヘーゼルのプラリネの板。力強い味わいのパイ生地が普通より1枚多い4枚。
その強さを迎え撃つのがフィヤンティーヌ入りのプラリネ。
そして、カスタードには小さなアーモンドのダイスが加えられている。
一転して、似通った味わい、風味と食感を厚く塗りあわせた油絵のようなミルフィーユ。
パイ生地はバターを焦しているようなもので元々ヘーゼルの風味に近い。そこへヘーゼルのプラリネにアーモンド。パイの優しいサクサク感に、フィヤンティーヌのかなり強いチャリチャリ感。
これでもかと畳み掛けてくる迫力のあるミルフィーユ。
3つのミルフィーユがそれぞれ発想の方法、視点が異なっており、同じミルフィーユという台本から3人の演出家が異なったパフォーマンスを抽き出しているようですらある。まさに、宿院の自由な精神の発露と言えるだろう。
生地作りの上手さを語る上で重要なのは
●『フィグ』。

ドライイチジクの入ったパウンドケーキ、のはずなのだが、食べてその軽さに驚く。
やわやわのスッと消えてしまうような口溶けの良さ。
生地にナツメグが使われているのでパンデピスのような風味。
洗練の極のような軽やかな生地に少し田舎臭い香りを付けて力強さを付与。
ルビーポートに漬けられたイチジクの美味しさといったら、もう。さらにフランボワーズも加わって酸味の奥行きを出してくれている。

前述のティラミスの逸話を彷佛させるのが
●『カプチーノ』
エスプレッソのバヴァロワとゼリーの組み合わせ。
バヴァロワの中にブリュレ生地が射込んである。
トップにクレームシャンティとシナモン。
ここでも素材が分解され、再構築されている。
その際、エスプレッソはバヴァロワとゼリーに増殖。最初から生クリームの加わったバヴァロワとシャンティで補うゼリー。
一体となった味わいと、別々の味をそれぞれ味わえる面白さがある。
最後に紹介するのはシェフが得意にしているチョコレートケーキから
●『ベネズエラ』。

宿院のお気に入りだったエルレイ社のサンホアキンを使ったもの。エルレイ社が廃業したために今では幻となったケーキ。
カカオ70%のサンホアキンをたっぷり使った、ガナッシュとシャンティを合わせたムースが主体。
コーヒーシロップをアンビベしたチョコレートスポンジとカラメリゼしたクルミが射込まれている。底にもチョコスポンジ。表面は見事なほどの鏡面仕上げのグラッサージュ。
まずサンホアキンの品の良さ。これを選んだこと自体で半分以上の成功を収めていると言えるほど。組み合わせが品の良さに引きずられることなく、むしろ力強さの部分に呼応しているところに、成功の鍵があるようだ。
コーヒーは限りなくチョコレートにピタリと寄り添い、クルミは例の食感の刺激。プラス、香りと味の奥行きを出している。
シンプルでもうこれ以上何も引けないというほど、バランス良く、引き締まった味わい。
味わったその日のことが偲ばれる。素晴らしかったね。
“分解と再構築”と言葉にしてしまうと、誰にでもできる簡単なことのように思えるかもしれない。
しかし、再構築の再は“差異”を生み出すものであり、“才”によってしか生み出せないものなのだ。
シェフはつねに謙遜して自分なんか、と卑下してみせるが、仮にスタート時点は本人の言葉通りだったかもしれないが、今、関西でもっとも燦めきを発揮しているパティシエであることは間違いない。今、彼の卑下は後輩を励ます意味で言っているのである。
宿院ワールドには抽き出しが多く、紹介していると結局全品ということになりそうなので、この辺で終わることにしよう。「チュリエス・マカジン」ほどの取材をしてみたくなる逸材だ。また、次の機会が訪れることを望みたい。
※敬称略/このシリーズはインタビューを基にオリジナルに構成したものです(取材・執筆・撮影 久保田僕)文責:日本パイ協会
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※ブログ「パイ日和・おまけ」では、このお店のケーキを紹介しています。